昭和41年10月15日 朝の御理解



 椛目の信心というよりも、私の信心なんですけれども、どうも消極的な信心で積極性がない。そこんところは、まあ愈々大事にいたしますけれども、積極的にこちらから働きかけるといったようなものが私の信心に欠けておる。ですから自ずと椛目の信心をなさる方の上にもそういうようなものを感じ、気が付かなかったんですけれどもね。
 昨日、まあちょっとしたことから「はあ、私にはこれが欠けておるなあ」ということを痛感さして頂いたんです。例えば私が成り行きを大事にすると、成り行きそのものが神様の働きなのだと。自然に起きてくる事、暑い事であろうが寒い事であろうが、それを合掌して受けていくのだと。これだって大変な元気な心がなからなければ出来ませんですね。自分の都合のいいことは合掌して受けていくけれども。
 自分に都合の悪かったり、損にんどんなるこであったらそれを受けようとしないでしょうが。だから消極的な信心ですらそれなんです。ね。ですからここんところだけでも私は、まあ大事ですから、もちろんここんところをまあいうなら椛目のまあ、独壇場独壇場と言うとおかしいですけれど。私は徹底してここんところを頂いていきよるところですから、皆さんも、これはまず皆さんのものになさらなければいけない。ね。
 けれどもこれはどこまでも自然に起きてくる事なのですから、こちらからいわゆる受身です。やはりこれは消極的な信心だと思うですね。その信心でもです皆さんほんとに、その、完璧にここんところを頂いていこうとする為には、大変な精進と修行精神と元気な心がなからなければ出来ないと思うですね。昨日奉仕させて頂いとりましたら、家内が井上さんというて椛目で一・ニと言われるくらいな、その財産家です。
 そこのお祖父さんが見えておられる。「あのうちから竹の注文をしとったですか」て、言うてから家内が言うて参りました。そんな事は言うとらなかったが。定男さんがあの大祭前に青い竹が要るけんで、しちから言うてきなさったからて聞いて来てなさるとです。そのお手洗い鉢の竹を大祭度に替えますよね、こうひしゃくをこう置くとですね。それで「今日は竹切りに行きよりますけん、それもついでに切ってきます」ち。
 うちんとはもうしょうけじゃなくて小さい、こういう細かいとでよかっですけども、定男さんがどうしていったでしょうか、やっぱ自分が気の利いてから言ったとですばい。私、迷惑掛けたですねち言うてから申しましたことでございますが。そん時に、私はちょっと下りてからその事を申して、あの、家内言うて参りましたものですから、参りました表に。してその言われるのです。そして言われることがです、今日はあの椛目中、私は回ってから、あの、しょうけ屋さんですもんね。
 若い時は、ここの田中の隣におられましたから。もう大変財産家で、上に御普請されてあちらへ、まあ移られた、私どもの子供の時分でした。もうそれは有名なしょうけ屋さんでした。そんことから椛目中回ってから、もうしょうけやらあるとん、修繕どんするとがあるならば、ついでにしてあげると言うて回ってから、あの回りますと、こう言われる。あかいてそしてから、あのーそげなこと行ってから済みませんち言うたら、いえまあ私で出来ることならさしてもらわにゃ出来まっせんけん。
 私があの、竹もついでに切ってきてあげますと、こう言われる。ほんとにやはり財産を成すというような人、おかげを頂く人は違うと私は思いました。これはですね、それがあの、お礼でも貰おうといったような気持ちじゃない。ほんとに私に出来る御用なら、私はしてあげると、こういう気持ちなんですね。私に出来る御用なら、私に出来ることなら、とこういうわけなんです。
 例えばその裏付けするような事が、皆さん記憶しておられるでしょうか。この尾松の入り口が、みんな、あの、竹で、竹の塀がずうっとした時がありましたでしょうが。それをあの、内々で御信者方が割っておるのを朝、そこに百姓しに出られる時に見られてから、すぐ自分が道具を持って来てから、もうそれこそ一日がかりじゃあったけれども、内の者なら何日がかりじゃしちにゃわるいようなですね、事をもう一日でばたばたぁっとして下さいました。もう内にはそう関係のない方なんです。
 信心なさる方でもないですから。もうそれがですね、自分が出来ること、自分が出来ること、もちろんお礼なんか取られはしませんでした。私はですね、自分が出来ること。いーや私が出来ることですからと、ということをです。昨日も椛目中回ってから、しょうけん悪かどんがあるとなら今うち出しなさい、私がついでにしてあげるけんで、たびたび行きよるけんで。というふうにして、まあ言うて回る、いわゆるつうて昨日言わっしゃいましたからですね。
 もうその、お礼どん貰うてんなんてんちゅうなものはもうさらさら無い。ただ、私が出来ることをしとく、とこういうわけなんです。私は、それを聞きながら思うですね、私の信心にはそういう積極性がない。皆さんどうでしょうか。ね。私が出来ること。ね。頼まれたっちゃ自分に都合の悪かったりするならば、例えば、もうこの頃、私は、そげなことはしよりませんけんと、例えばです、私は言う人が言うことはなかろうかとこう思うです。ね。
 自然に、例えばそういうふうに、その、頼みに来られてもです、消極的な、それを徹底してやらなきゃならないというような生き方をこうして日夜習っておるんだけれども、それをした人が、私は多いことはなかろうかと思います。ね。それでも、例えば受けていくという事は難しいけれども、更にその積極的なです、私に出来ることならばと、こう言うて回られる、その、積極的。
 けれどその、積極的とか消極的とかですね、そういう理屈もんじゃないですね。それはもう何か私が出来る事出来んも、替えられるともこれ出来るとは私一人じゃけんで一人でしあげると。もう七十からのおじいさんなんですけれども、それが。いわゆるその、はあ、おかげ頂きなさる人は違うなあと私思うたんです。ね。椛目の信心は、その、積極性が欠けておる。今はその、消極的な信心とは、例えば私が、成り行きを大事にすると、自然を尊ばせてもらうと。
 神様を大事にするとはそういう事なんだから、自然に起きてきたことは、もうこれは一切合掌して受け抜いていく。もう、ある場合にはそれと対決せねばならんほどにきつい事もあるけれど、対決し抜いていけと。ね。これは私は、どこまでもそれでも受身ですから消極的な生き方だとこう思うのです。これにもうひとつ私どもの信心の上にですね、積極的な働きかけ。これは、私に非常に欠けているところなんですよ。
 ですから皆さんの上にもそれが、あの、やはり同じようなことになっていくんだと思いますけれども。そういうようなちょっとした事からです、私自身の、自分そんなに思いもしなかったです私、実を言うたら私は。自分の信心に積極性が欠けておるといったようなことが。思いもしませんでしたけれど、そういうような事から、私にはああゆうものが欠けておるなあというものを感じたんです。ね。
 積極的場合にはそうした働きかけさしてもらい、神様が喜んで下さるという事ならば、いや私が出来るということならば、積極的にそれをどうでもさして頂くと言う様な事の上にです、例えば井上さんあたりが、もう椛目どころじゃありません、もう草野で言うても指折りの金持ちさんで御座いますが、物持ちさんですが、そう言う様なものが、そういうような精神に、それ頂けられるのじゃなかろうかというふうに感じたです。
 同時に皆さんも、私が消極的といった、成り行きを大事にしていくという信心も、これはもうそうでしょう、水も漏らさんものにしていかなければなりません。けれども、同時にこれがどこまでも消極的なものであって、積極性なものではない。どうぞ、これからも出来ることがもしあるならば、ね。私でなからなければ出来んと言った様なことがもしあるならば、そのことは積極的に働きかけて、御用でもさして頂く、いやそれに取り組んでいかしていく信心がいよいよ身に付いていかなければできないと思うですね。
   どうぞ。